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 令和5年04月05日掲載

〔 Vol.22 : 「YS-11の誕生,その後」(量産初号機 JA8610 他)〕

 

別サイト、アビエーションワールド Vol 46;[YS-11の誕生]で、試作機JA8611、JA8612を主に紹介していますが、本項では、私が初めて乗ることができた飛行機でもある、引き渡し間もない当時のYS-11の量産初号機JA8610を主に紹介し、さらに、紹介しきれなかった試作2号機JA8612のその後も紹介します。
また、既述でもある、当該YS-11の後継機でもあるMRJ(スペースジェット)の型式証明が取得できなかった課題についてと、その参考のため、YS-11以降のその後の約30数年間、航空機検査官及び事故調査官時代を通じて個人的に私が経験し得た事を紹介していきたいと思います。

YS-11の開発過程及び型式証明の取得では,官民合同で日本の主要航空機製造各社が参加した日本航空機製造(NAMC)が行い、基本設計は「木村秀政をはじめとした5人のサムライ」たちで、多くの飛行機を飛ばしてきた経験はありましたが、輸出を想定している旅客機としての安全性の審査基準は米国と同じ基準で新たに設定され、審査を担当した職員も含め全員初めての経験、多くの想定外の苦労をして型式証明を取得しました。
課題となったことは、国内で多くの飛行機を作り飛ばした経験及び技術はあっても、輸出を前提とした旅客機としてのその安全性の証明では、世界基準による一定の操縦技術、気象要件等の安全基準をも満足し飛行できるかを証明するものであり、実際に経験のあるパイロットが飛んで確認するため、戦後に大きく発展していた民間航空界の旅客機では、全く経験がなく、最終段階でのFAAテストパイロットによる指摘が問題となりました。

私が航空局検査官になって間もなく、直接の上司は名古屋勤務から移ってきたMTさんでしたが、飛行機が好きで自家用ライセンスも持っており、当時の名古屋でのYS-11とMU-2での型式証明での飛行試験の話を数多く聞くことができました。
今でも印象に残ることは、飛行試験では飛行機を良く知っていることが重要で、飛ばせるだけの単なる「運ちゃん」パイロットはダメだとの言葉が印象に残っています。 当時のダグラス社のDC-8チーフ・テストパイロットはプライベートライセンスのみであり、レイテングや総飛行時間等とは関係ないという話も強調していました。

また、FAAパイロットも根拠としている各種のFAAハンドブック、FAAオーダー等の話も聞くことができ、一部のサンプル等も入手できたため、手順及びその方法等で参考としましたが、その数年後(1974年)にFAAのオクラホマ・センター(FAA Academy)で研修を受けた際、その多くを実感できた良い機会でした。
参考に、私が受けた研修コースは「Major Alteration」のテーマでしたが、FAA検査官に対する定期的なブラシアップが目的であり、通常でも実施する改造作業等で、国の検査確認が必要となる「Major」であるか、整備士で実施できる「Minor」かの判断が重要となり、それを検査官が判定するための研修とされていました。
当時は検査官成り立て勉強中の身でしたから、同じテーマ等で、検査官による判断の違いがあってはならない、そのため米国と同様「TCL サーキュラー集」等の各種手順書の内容を充実させ、それに従うべきとされていました。 他、米国では、日本とは桁違いの多くの航空機の数と種類及び自作機等もあり、独自の改造等が当たり前の社会背景では、事例を規定化すること等では対応できず、基本的には検査官が個別に安全に対する影響を判断し、安全の確保を図るとの考えでした。
検査官の経験等によって判断が異なることも前提とされ、そのためにも個々の検査官の研修等を充実させることが最重要とされており、特に、新らに設計された飛行機(TC、STC申請等を含む )及び独自の改造等においては、検査官のスキル、経験による判断が重視されることも強調していました。
参考ですが、他に米国のパトカーの警察官等でも危険な運転と判断すればあらゆるケースで取締りを行うとされていること、車線を頻繁に変えた場合等で実感できましたが、日本では、規定化されたことのみ、正確にスピード違反は20km超、それ以下では余り取り締まれない等とは異なり、危険性は個々のケース毎で警察官が独自に判断するとの文化の差も実感できました。

一方、航空機の安全性に対する法律要件ともいえるFAR Part23(Airworthiness Standard、耐空性審査要領 )等で改訂の必要がある場合では、公聴会、NPRM(Proposal Rulemaking)等の制度があり、検討された際の根拠となる資料等が公表されていることで、制定された法律文以外の背景である、多くの事実と、異なる意見等も、誰でも確認できる制度があり、個別のケース毎の判断に対し、寄与できる制度となっています。
また、エアラン等に対する安全性の要件では、個別の事業認可の必要性からも、日本には無い駐在検査官の制度があり、大手エアラインでの新機種の導入時等では、個別に整備、運航体制、訓練体制等も検討、考慮されるため、検査官個人の能力も重視される制度です。

なお、当時の日本での対応ともいえる航空局のサーキュラー集、TCL等資料等の質、量等とも少く、その後も余り増えていません。FAAでの研修中では、個々の研修者の脇に2段の移動式ラックが置いてあり、当時でも膨大なすべてのFAA発行済の資料が備えられ、研修中の関連事項も含め、その多くを理解する参考となりました。 また、これらFAA資料は改定が多くあり、全ページ差し替え等も頻繁にあったことで、研修の廊下脇に資料差し替え済みの廃棄用箱にあった多くの参考資料を個人的に持ち帰ることができた(FAA Order、AC、TC Handbook等)ことで、その後の日本での勉強に大いに参考となりました。
なお、FAA研修の目的はベテラン検査官に対しても行う定期的な研修義務の一環でしたが、当該研修時も40代前後の検査官が多くいて、ほぼ同年代でもある教官との積極的な議論を多く聞くことができ、それまでの日本で経験してきた数多くの研修(先生と生徒の立場等)等とは異なり、教官も現場での問題等を確認する、対等の立場であったことが、理解できました。なお、私達(他に韓国とインドネシアからの2名)海外組に対しても講義を理解しているかの4択による頻繁な確認が行われ、最終日には筆記試験もあって結果が国へ直接郵送されていたことも後刻知りました。帰国後には霞が関庁舎の大講堂で留学生組の報告会の義務もあったことで、改めてFAA Academyが各種の航空従事者等に対する、Training & Testingの専門施設であることが実感できました。

以上のことは最近の航空界の課題であるMRJの型式証明について考えた際、私が経験したYS-11以降の50年ほど前と、略同様な問題の繰り返しであって、日本の社会制度、価値観の変遷等もありますが、問題を指摘するだけでは理解されないものと思い、当時私が経験したことで参考と思われる事項を最初に列記しました。

新たな設計による旅客機の新規の型式証明では、あらゆる可能性が検討される必要があり、日々に進歩する航空界に於ける新しい技術や材料の使用、またすでに認められている飛行機に於いても事故の発生や運航経験等から生じた課題で対応する必要があります。
従って法律要件としての記述の変更はなくてもその証明の方法等は変わり得ます。
単に飛行機学者さん又は昔飛行機を飛ばしただけの設計経験者等で、過去から現状での多くの他の飛行機での知識、経験等に対する理解が無ければ、既知の安全上の法律規程(FAR Part25、耐空性審査要領等)による要件だけを満足させようとしても課題が出るのは当然の事とも考えられます。 特に飛行特性に関することでは、同じ要件であっても新たな設計の型式特有の特性に対応するため経験等は特に重要となります。

三菱重工等では、YS-11以降での主体は官需であって、発注者である国の検査官の監督のもとに行う一次的な設計責任、製造責任等を持たない防衛庁機等の開発に主に頼ってきました。また、ボーイング機等の製造分担でも仕様に基づく作業のみで、日本の航空業界は大きな利益は得られないまでも、リスクを避けることで育ってきました。
旅客機等の開発では、販売を増やすためにも、最新の技術、未開の分野も含むリスクを伴います。型式証明の取得では可能性のある、あらゆる疑問に対し、オープンで率直な議論ができることが必要ですが、特に1980年代ころに起きた航空不況(大手エアラン、大手メーカー等が再編成された)以降では、日本でも合理化等による経営者的な判断が多くなり、従来から有った少しの疑問や異なる意見等に対しても余計な作業として検討もされず、何よりも日本の特殊な社会性もあって、オープンな議論として記録や公表されることがないままだったことが、課題だったと考えられます。

ネット等で主流となっている、FAAが日本のメーカー潰しの為の嫌がらせ等でなく、過去に三菱等が経験してきた、防衛庁機等の開発では当然の検査官による積極的な指導等は、FAAでは第3者の立場でもあり、あり得ないことと考えられます。  

改めて、私が乗った最初の飛行機でもある、YS-11の量産初号機、JA8610機について紹介したいと思います。 1966年、当時の航空局のフライトチェック機はDC-3のJA5210機も現役で、YS-11型は、翌年以降からも増え続け、航空大学校の訓練機から移籍した2機も加え、最終的には、延べ6機が2007年まで40年間程も使用されました。
その後の計器装備等の違いもあるかと思いますが、できるだけ、この量産初号機のオリジナルの形態を紹介したいと思います。

 
❖ JA8610

1966年10月 羽田空港出発前のフライトチェック機です。手前の主翼は、同じく出発前のDC-3 JA5210機です。

 
❖ JA8610
引き渡し間もない機体で、目立った蛍光塗装、自動タラップ等が特徴でした。
 
❖ JA8610
コックピット計器盤、量産初号機のオリジナルでRadio Call JA8610が確認できます。
 
❖ JA8610

キャビン前方、左右にはフライトチェックのための無線機器が装備されていました。

 
❖ JA8610
キャビン前方右側の計測員用パネル、キャビン後方はスペアーシート部です。
 
❖ JA8610
左エンジン部と先に出発した JA5210の DC-3型です。
 
❖ JA8610
別の日ですが、羽田B滑走路から多摩川方向への離陸です、なお、同乗したフライトチェック機は伊丹空港での試験終了後、当時の着陸は八尾空港でした。
 
❖ JA8612
試作2号機ですが、型式証明取得後、一時的にJDAがリースで使用していたころで、撮影は1967年頃の羽田です。
 
❖ JA8612

1973年頃の大阪空港での撮影ですが、日本航空機輸送(NATC)がリースし、地質調査所の空中磁気探査に使用するため、機首と尾翼端にセンサーを装備していました。

 
❖ JA8612
前項の地質調査はNATCの事業認可絡みで、1976年以降ではリース先が中日本航空に変わりました。 撮影は1977年頃の名古屋ですが中日本航空では旅客輸送には使用せず、その後の1980年頃に、この試作2号機は解体されました。
 

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