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 令和3年01月14日掲載

〔 Vol.20 :「南西航空の歴史」その1(CV-240他)〕

 

南西航空(Southwest Air Lines SWAL )は1967年6月20日米軍占領下の沖縄県で第三セクターによる航空会社として発足し、主な出資者は日本航空及び沖縄県等で、JALが全面的に機体の準備、整備支援等を行いました。

当時、その設立は占領下の沖縄だったことで課題が数多く、会社の登記が完了したのは67.6.20、同日に使用機体を羽田から那覇へフェリーし、運航開始は翌月67.7.1から、3機体制での発足となりました。

運航開始時の使用機材CV-240は、戦後航空再開当時に本土内のローカル路線を運航していた北日本航空及び日東航空が購入した機体でしたが、1964年に経営統合され日本国内航空(JDA )としての使用機でした。

JDAは1965年頃から後継機YS-11が量産化、引き渡しが開始されたことで、一時機多く使用されていたCV-240型も、路線から外れた機体が海外への売却待ち等で、SWAL発足時の1967年頃には羽田の整備場で多くを見られました。

日本航空は、JDAからCV-240をリース、整備及びSWAL予定機への塗装を行い、南西航空が発足後(67.6.20)に、SWALにさらにリース、那覇へフェリーされました。運航開始時にはCV-240を2機と、より小型の離島路線用に、日本航空所有の訓練機H-18(那覇--久米島線等に使用)1機のリースでしたが、1967.9.23日にCV-240の3番機をリース、H-18型は間もなく67.10.4日に日本航空へ戻されました。

南西航空が購入したYS-11型の1番機JA8696(ゆうな)は1968年5月31日の、翌月の6月20日にJA8715の2番機、更に12月27日にJA8710の3番機が到着し、直後の1968年12月末までには、すべてのCV-240型は、JALに返還されました。なお、今回はCV-240を主に紹介しましたが、次回以降も、YS-11、B737-200、DHC-6等、南西航空時代で私が出合った機体、関連会社のRAC機等も含め紹介したいと思います。

 
❖ コンベアCV-240-1 cn47 JA5092 日本航空 {1967年 羽田空港}

1948年Western Airlines(N8404H)に引き渡され1961年まで使用されていましたが、196年北日本航空がJA5092として購入、1964年に日本国内航空(日高)として運航していた機体を日本航空がリースし整備中の機体です。
塗装はJAL機と同じですが、使用予定の南西航空を想定し、会社名のタイトル名称等は未だ記入されていません。
この後に南西航空設立時の具体化が進んだことで、フル南西航空として塗装、運航開始時期は、沖縄でそれまで運航していた米国企業エア・アメリカの路線を受け継ぐ形で1967年7月1日に予定され、会社設立のための登記が1967年6月20日に済んだことで、その日に、CV-240の1番機として引き渡し式を実施、羽田から那覇へフェリーされた機体です。
南西航空では、リースされた3機のCV-240のなかで、最後まで使用された機体で68.12.28日にJALへ返還され、その後は米国へ売却されました。
米国ではTexas Instrument Inc(N8408H)で使用された後、1982年Planes of Fame Air Museumが購入、オリジナルのウエスタン航空時代の塗装とし、Valle Arizonaの展示エリアで公開されている機体です。

 
❖ コンベアCV-240-1 cn17  JA5087 南西航空 {1967年 羽田空港}

1948年から1961年までWestern Airlines(N8404H)として使用された機体を1961年に北日本航空が購入、その後日本国内航空(津軽)として運航していた機体をJALがリース、SWAL塗装後に南西航空への引き渡し直前です。
なお、引き渡しは前記のJA5092に続く翌日、67.6.21日に那覇へフェリーされ,7月 1日から前記のJA5092と2機で運航が開始されました。
JALへの返還は、YS-11の2号機が導入された直後の68.6.28日と記録されています。
また、後方に別のSWAL塗装済みのCV-240が見えますが、保管のための厳重な防錆措置がされており、当初の2機のCV-240とは別の3番機(JA5125)で、実際にSWALへ引き渡されたのは67.9.23日、この約3か月後でした。

 
❖ コンベアCV-240-3 cn73 JA5125  南西航空 {1967年 羽田空港}

1948年 Continental Air Linesへ引き渡され(N90844)、Canadian Pacific Air Lines
を経て、1963年日東航空が購入、1964年からは日本国内航空(陸中)でした。
南西航空へは3番機として、最初の2機より遅れた1967年9月23日、JALへの返還も最も早い68.6.9日でした。

 
❖ ビーチ H-18  cn BA744  JA5136 日本航空 {1967年 羽田空港}

日本航空が1967年 5月仙台に開設した日航乗員基礎訓練所用のH-18として購入した機体の初号機ですが、羽田へ到着直後から南西航空使用機として整備され、67.6.23日に那覇へフェリーされた機体です。 南西航空運航開始時にはCV-240の2機と、このH-18 1機の体制でした。久米島、南大東線等に使用されていましたが、CV- 240の3番機が到着した直後の67.10.4日には、日本航空へ返還されています。

 
❖ コンベアCV-240  日本航空 {1967年 羽田空港 整備地区}

1967年5月羽田整備場地区のハンガー内で、南西航空向けのCV-240が2機、塗装を含め整備作業中の様子です。

 
❖ コンベアCV-240-1 cn17  JA5087 南西航空 {1968年 羽田空港}

南西航空向け2番機ですが、翌年6月日本航空へ返還され羽田で整備中の機体です。
南西航空の胴体上の文字、及びSWALマークが消されていますが、最初の引き渡し前からの胴体後部昇降タラップ側面のJALマークは残っていました。この直後には米国へ売却され、68年11月以降は以前のN8404Hとして、米国で飛行していたようです。

 
❖ 日本航空機製造 YS-11A-200 2065 JA8696 ゆうな 南西航空 {1968年 羽田空港}

日航製(NAMC)YS-11A 南西航空向けの1号機です。1968年5月11日新規登録された機体で、日航製からのリース機として羽田空港経由で68.5.31日、那覇へフェリーされました。
SWALでのYS-11は当初はリースのち購入(本機では72年12月に購入に切り替え)しています。なお、南西航空向けのYS-11型は、当初は日本航空も一時期YS-11を運航していた頃で、羽田経由でしたが、以降は那覇へ直行でフェリーされていたようです。以降の写真はすべて1972年本土復帰以降の沖縄で見ることができたものでした。

 
❖ 日本航空機製造YS-11A-200 2069 JA8715 あだん 南西航空{1974年頃 那覇空港}
1968年6月那覇へフェリーされたYS-11Aの2号機です。 なお、南西航空の機体塗装は、すべて従来のJAL塗装がベースとなっていましたが、1968年末以降に、尾翼が赤のSWALマーク入りに変わり、胴体がオレンジべースとなる全面変更は1978年頃以降です。
 
❖ 日本航空機製造YS-11A-200 2065 JA8778 はまゆう 南西航空 {1974年 那覇空港}

尾翼にSWALマークが記入された新塗装機で、1971年7月引き渡されたリース機で、YS-11の4号機です。なお、翌年の本土復帰以降にリースから購入に変更、以後の購入機でもNAMCOからのリース形態はなくなりました。

 
❖ 日本航空機製造YS-11A-200 2083 ふくぎJA8794 南西航空 {1974年 那覇空港}

YS-11A 南西航空6号機ですが、1968年製造のブラジル・クルゼイロ航空(PP-CTL)で使用されていた機体を購入し、1973年11月登録されました。また、JTA所属となった1999年7月15日 YS-11路線として最後まで残った与那国線に就航した記念すべき機体でした。

 

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