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 令和元年08月08日掲載

〔 Vol.08 :「忘れてはいけない航空事故Pan Am103便とUTA N54629」

今回は航空機による事故の事例としても社会への影響が大きく、一つの国、一航空会社の枠をも超え、世界情勢が絡んだ事例としての2件を紹介します。
今年も8月12日が近づき、あってはいけない航空事故として思い出されますが、紹介する2件は1985年のJAL御巣鷹山事故のその後間もない頃、1988年のパンアメリカン航空747-100型機と1989年のUTA航空DC-10型機の事故で、Pam Amの搭乗者256名とUTAの搭乗者170名の全員が死亡した事例です。
発生が日本と離れたヨーロッパとアフリカであったこと、且つ当時の世界情勢が絡んでいたことで、航空事故としては日本ではあまり関心を持たれなかったと思いますが、この事故の影響もあり、どちらの航空会社もその後間もなく消滅しており、世界情勢も当時より良くなっている補償もない今日この頃では、航空機を利用する誰でもが知っておく必要があると思う事故であり紹介します。
 なお、この2件の航空事故は、結論的には2003年以降になり、どちらも、リビア政府が絡んだテロ事件として処理されますが、特に、パンアメリカン103便事故については、私が2000年に英国Cranfield大学で受けた研修の際、イギリスが経験した最大の航空事故だったことで、当時のAAIB事故調査官(Air Accidents Investigation BranchのInvestigator In Charge)から、当時保管されていた事故機の複元状態を含め、事故調査過程の詳しい説明を受けたことで改めて紹介します。
また、この研修の中で最も印象に残っている授業が、このパンアメリカン機の事故で実の兄を亡くした女性のスピーチだったことでした。
授業の趣旨は、航空機事故の調査では大規模災害(DISASTER)としての社会的責任があり、危機管理としての“ Disaster Management”が重視されることから設定されたものであって、スピーチは、事故当時マスコミ等から数々のインタビューを受けた際の被害者の気持ちを淡々と語られ、非常に感銘を受ける話し方でした。
なお、この方は、このパンアメリカン機事故及びロンドンで起きた大きな列車事故がきっかけで設立された、被害者連絡会「Founder Member of Disaster Action」の代表者であって、自分の経験から同様被害者への手助けになるものとして、我々受講者及び調査官からの質問にも、丁寧に答えられていました。
私にとっては、以前から、日本で御巣鷹山に登った際等に感じていた「8.12連絡協議会」の会報(茜雲)の、遺族の手記とイメージが重なり、且つ、直接話が聞けたことで、有意義なことでした。

 
❖ Boeing 747-121 N739PA at Lockerbie Scotland on21 December 1988事故
 (参考写真 B747-121 N742PA パンアメリカン航空{1970年3月 羽田空港})

AAIBによる航空事故調査報告書は、Accident Report 2/90として、上記タイトル1990.8.6付けで、膨大な根拠資料とともに公表されています。 
この中の結論では、前方貨物室に搭載された貨物コンテナー内からの爆発衝撃により発生した大きなホールを含む胴体構造部の破壊により、前部胴体は分離、スコットランド地方のロッカビーの町中に落下、大きなクレーターを作ると供に多数の民家の破壊と火災で、機体の乗員、乗客259人全員と、町の住民11人も死亡する、大惨事となりました。
他にこの報告書では、このパン・アメリカン航空103便は、フランクフルト発、ロンドン経由NY行きで、ロンドン・ヒースロー空港で機材が727から747に代わり運航されており、ヒースロー空港離陸後の高度31.000Ftの巡航高度で予定時間より30分遅れた離陸であったこと、調査過程では、この機体の破壊に繋がる他の不具合等は無かったことが確認されています。(参考、これ以前に飛行中の747の貨物ドアのロック不具合等による事故が経験されています。)

この航空事故の再発防止策及び注意点としての問題は、航空事故報告書では含まれない、直接原因である爆博物の出所、それが、どのようにして当該機に搭載されるにいたったかの課題であり、且つ、一国の範疇を超えた行政上の問題及び捜査当局上の問題であることです。 ネット等で検索すると、航空事故でなく、パンアメリカン航空103便 爆破事件等のタイトルで内容を確認でき、それらによる概要を紹介しておきます。
なお、考慮すべき点としては、ICAOによる航空事故の調査は、事故の再発防止が目的であり、その為に報告書の内容、根拠資料等は、行政及び司法当局の犯罪捜査等に使用できないと規程されています。 爆破事件としての概要は、全ての根拠資料が公表されている事故調査報告書がベースとなりますが、そのための栽判制度があり異なる目的及び手段で行われる行政当局及び犯罪捜査としての司法当局等からの発表内要であり、事実の根拠等を分けて認識する必要があります。
爆発物は日本の東芝製大型ラジカセ内部に装着されたプラスチック爆薬(セムテック)によるもので、リビアへ販売したことが分かった時限装置に使用されたタイマーの一部、ラジカセを包んでいた衣服の切れはしから、搭載されたのは直前に同一便名で運航していたパンアメリカン航空の727が寄港したマルタ空港であり、空港関係者であったリビア人2名が容疑者として特定され手配された。
リビア政府が容疑者の引き渡しを拒否したことで、1992年に国連安全保障理事会が決議を採択、更に拒否されたことでリビアに対する制裁決議が何度も行われ、1999年になり、リビア政府が当該容疑者の引き渡しに応じた経緯があります。
容疑者の栽判は第三国であるオランダにおいて行われ、2001年に容疑者の一人に終身刑の結審が行われています。
2000年に、英国ファーンボロにあるAAIBハンガーで復元状態の事故機を見ることができたのは、当時、容疑者の栽判中であって、政治的にも最もクリテイカル、センセィテブな時期で、未だ保管せざるを得ない状況であるとの説明も受けていました。
さらに、その後の2003年頃に、犯人の受刑者がリビアの情報機関所属だったこともあり、リビア政府は直接の責任を認め、遺族に対する補償一人、略$1millionに同意、実際の支払いは2008年頃に、総額(後半に述べるUTA722便の賠償と合わせた額)は不確かですが27億ドル(約3.000億円)程とされています。
なお、終身刑でスコットランドで服役中であった受刑者は、2009年にがんで余命3か月と宣告され、特別処置で釈放されリビアへ帰国しましたが、帰国時には英雄的歓迎をうけたこと、死亡したのは3年後の2012年でした。
これら経緯を理解するためには、当時の世界情勢、政治的な背景も知る必要があります、1986年からのアメリカによるリビア爆撃、イラン航空の撃墜も背景にあると言われていました。 一部の意見では、これら一連の栽判等は「テロに対する報復」で、さらに「テロによる報復」とも言われており、事故調査報告書は事実だけを公表しますが、裁判等においては、国を超えたいろいろな意見があっても、決着を目指す制度的なものであると理解する必要があります。

なお、私が2000年受講した航空事故調査の研修では、国の調査官だけでなくエアライン及び軍所属のスペシヤリスト等、14カ国の23名が受講し、グループ内での研究を含めた6週間の間の大学の寮生活中にも、多くの機会で、技術的なことを学ぶ以上に、それぞれの国での考え方の違い等に接することができました。 授業中にも複数の教官から、日本はデファレント・カルチャーの国だからと何度か聞かされましたが、日本へ戻ってからも、毎年の御巣鷹事故での一部の報道等に接すると、考えざるを得ないと思っています。
特に、大きな事故等(Disaster)が起きた場合の当事者(事故被害者、原因者等)に対するメデアの扱いは、日本では根本問題を考えることなしに興味本位に扱われていることが多いと思います。 
ICAO国際条約に基づく再発防止を目的とした航空事故調査では、事故発生国が報告書をまとめますが、絶対的な正確を期すため、調査過程に於いて事故機の製造国(設計、製造過程の問題点の調査等)及び運航者の参加を義務付けています。
日本で事故調査委員会が発足した以降、機体の設計等が問題となり得る輸入航空機での事故調査の経験が少なかったこともあり、一部のメデア等には全く理解されていない現状があります。 寧ろ他の根拠が確認できていない情報に基づき、事故報告書の信頼性を下げる記事等が一部に多く見られます。
機体の事故現場に機体の製造国の事故調査当局、製造者等が立ち入ったことで事故調査報告書の信頼性が落ちるとの主張までありますが、前記で述べたICAO条約に基づく調査の手順そのものが否定されることは、現行の航空機の安全性(耐空証明書にはICAOが定めた基準Annex 8に合致されていることを明記)では、事故を起こした場合の事故調査手順を別規定(Annex 13)で定め、安全性が維持されるものであり、条約の規定の項目は別途に通告していない限り、守る義務があります。 なお、事故調査報告書は、公表前に他の調査参加国(機体の製造国等)の同意が必要であり、同意できない場合は別意見として報告書に併記することも義務付けられています。

 
❖ ダグラスDC-10 N54629 UTA Flight722 1989.9.19
 (写真 ダグラスDC-10-30 N54629 UTA航空{1984年 成田空港})

1989年9月19日、UTA航空722便はコンゴ共和国・ブラザビルからパリ行きの便として、経由地のチャド共和国・ンジャメナ空港を離陸、40分後にニジェール国のサハラ砂漠上空を35,000ftで巡航中、貨物室で爆発が起こり墜落、乗員乗客の170名全員が死亡した事故です。
 墜落地点は、サハラ砂漠の中でも最も不便な僻地で、調査の主体は混迷が続いていた事故発生国のニジェール共和国でなく、国連のICAO調査チームが行いました。
 機体残骸からは高性能爆薬のペンスリットが検出され、前方貨物室に搭載されブラザビルで搭乗、ンジャメナで降りた乗客のスーツケースが爆発源で、前年のパンアメリカン・ロッカビー事故でも使用された、特殊なタイマーの一部も見つかったことからリビアの関与が疑われました。
背景としては、5年前の1984年3月10日、同じUTA航空でDC-8型機がブラザビル・ンジャメナ間で爆弾が仕掛けられた経緯があったこと、1987年から続いていたチャドーリビア紛争(TOYATA WARとして知られている、トヨタのピックアップ・トラックが主力のチャド軍と、戦車、飛行機、ヘリを持つリビア正規軍とのチャド北部での戦争)で、リビア軍はフランスが援助していたチャドから撤退した時期と一致しています。
その後フランスの司法当局はリビアの情報部員を含む容疑者5名を確認手配した。
なお、2007年の墜落18年後、忘れてはならない事故として、何もない砂漠の墜落現場にメモリアルを作成することになり、犠牲者の名前が書かれた右主翼と、遠く(70km超の先)から運んだ黒い石で機体廻りを直径200ftの円形で囲み、更に犠牲者170名(18カ国)の数170個の反射板(Broken Mirror)をその回りに配置することで、宇宙からも現場が見える記念碑として建設されました。
現在でも、Google Earth search(16°51′53″N 11°57′13″E )等で見ることができ、建設の費用は前項で述べたリビアの賠償費用で可能となったものです。

 

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