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 令和元年07月13日掲載

〔 Vol.07 :「ダグラス C-124 グローブマスターⅡ」

C-124 グローブマスターⅡについては、アルバム写真集Vol.09等でも紹介していますが、本項では、毎年8月12日が近づき、現在でも単独事故最大のJA8119御巣鷹山での事故が思い出されることから、もう一つの日本で起きた当時最大の航空事故であった、「C-124AグローブマスターⅡ 51-137 」についての事例を主体に紹介します。

1950~1960年代、立川基地での主役であったC-124 グローブマスターⅡは、当時世界最大の輸送機で、貨物で最大30トン程度、人員輸送では二重デッキ構造により最大200人、航続距離でもフェリー時最大10.000km程、その後私たちが親しんだ747ジャンボジェット機にも比較できるほどで、60年以上の前の事故であっても、その後の747御巣鷹事故等においても参考になるものです。

この事故は、1953年6月18日、立川基地を離陸したC-124A 50-137機が、離陸1分後にNo1エンジンが停止、立川へGCA着陸で戻るとの連絡後、基地の北東3.5mls付近、現在の小平市のスイカ畑に墜落、立川離陸後3分程でした。
搭乗者は朝鮮戦争の混乱時期でもあり、日本での休暇後、韓国のオーサン基地へ戻る兵士122名、乗員7名の計129名で、搭乗者全員が死亡しました。
この事故は、当時、過去に経験されていた航空事故でも最大であって、初めて100名を超える死亡者の出た航空事故でした。 
他の被害等は、地上の農夫1名が怪我を負ったこと、近くの青梅街道の通行が大混乱を起こしたこと等でしたが、戦後の混乱時期であり、日本人の死者もなく、且つ軍用機の事故ということで、当時の日本では、詳細に報道されことはなかったと思います。 
同じく日本で起こり、今年34年目となった御巣鷹山ジャンボ機の事故関連報道が溢れている現状と比較しても、事故の被害者報道等についても、米国では朝鮮戦争で徴兵された若者ばかり、100名以上が異国の地、交戦中ならいざ知らず、つかのまの休暇中に死なざるを得なかった遺族の無念等は、測り知れないものと思われます。
国民性の違い、又は報道の在り方の差等も日米で大きいと感じられますが、航空機の安全性についての設計、事故調査等に長年仕事として携わってきたことから、少しでも必要な情報を共有することが、私が今いる航空ジャーナリスト協会の趣旨に沿うものとして、事故関連情報を整理しました。

事故の要因はいろいろあり、きっかけは#1エンジンのキャブレター不具合によるエンジン停止でしたが、大型輸送機での飛行中の1発エンジン停止は、想定されたものであり、本来は、墜落に直接繋がるものではありません。
事故報告書による事故原因としては、パイロットの不適切なフラップの使用により速度が維持できなくなり、アンコントロール状態になり地上に激突したとされています。
大型機による、市街地に近い場所での墜落ながら、地上での被害が比較的少なかったのは、かなりのノーズダウン形態での激突だったことで、破片が広範囲に広がらなかったからとされています。

他に、この事故の要因となり得ることは、実質的に、同様事故の事故防止対策でもあり、当該事例等を紹介しておきます、
当該機は大型貨物の輸送を目的とした貨物機であって、人員輸送も可能であり、最大200名の制限があっても、機内には十分な余裕スペースがあります。
単独の独立した座席はなく、貨物搭載をコントロールするためのロードマスターが搭乗していますが、旅客機で実施できるような、厳格なコントロールは必要ないと思われていたこと、当該フライトでは第一線の戦地に派遣されていた兵士の5日間の日本の休暇で、持ち込まれた手荷物等が無視できない量だった可能性があったとも言われています。
更に、204機製造 されたC-124A型のR4360-20WAエンジン(3500HP)では、SuperchargerをAEC ( Automatic Engine Control )で行い、Low とHighの切り替えは、高度とスロットルセッティングで自動的に行われることとなっていて、標高の高い空港等からの離陸やクライム中に、望まないパワーロスの要因ともなっていました。 
後期に243機製造されたC-124C型のR4360-63Aエンジンでは、Superchargerに加えてTurbochargerが追加され、パワーアップ(3800HP )すると同時に、パワー低下要因となり得るBlowerの切り替えが、FEによる手動としていたことで、この事故の要因ともされる、パワー不足の対応とされていました。
何れにしろ、この事故以降では、一発停止等、想定された不具合でのパワー不足が要因となった事故は起きていません。
結果としては、1974年に全C-124の運航が停止されるまでの間では、製造されたC-124の447機中、62機(14%)が何らかの事故を起こし機体Lossとなり、計589名が死亡しています。

次に、一般的な航空機の安全性の向上等に絡む対策等の事例として、C-124の写真の紹介とともに、同一型式機でも製造ロット等で変更されている箇所、形態等を説明します。
なお、今回事故の要因でもあるエンジンのパワーアップC-124C型への改修は、C-124A 最初の生産ロッド機13機での未改修機は1967年初めまでに使用停止(MASDC)となり、残りのC-124A型の殆どは、エンジンを変えC-124C型に改修し、運航したとされています。
C-型改修は1953年から作業が始まったとされていますが、個々の機体の外観からの判断が難しく、正確には時期等、記録上では残っていません。 
エンジンO/H時期等、整備面を含めた運航計画の末に実施されたと思われますが、最終的に運航停止としたMASDCへの移管記録が残っていることで、推定される程度です。

1. C-124A 初期製造ロッド( 49-232~49-244 )13機の基本形態
胴体最後部に、水平尾翼のデ・アイス及びキャビン暖房用に、燃焼式のヒーター(Janitrol combustion Heaters )を装備、水平尾翼下左右にヒーターのベント 孔があり、排気跡が見えます。フラップはフルスパンタイプでフェアリングは8個、胴体キャビンのアッパーウィンドウは計10個あります。

2. C-124A( 49-245~49-259 50-083~-50-118 50-1255~-50-1268 )の65機
上部デッキ、アッパーウィンドウが8個となりエマードアを追加。

3. C-124A( 51-073~51-157 )85機
主翼翼端にヒーターポ゚ッドを追加し主翼防氷にも使用、胴体後部のリアヒーターは取り外し

4. C-124A( 51-158~51-182 )25機 
ノーズレドームを追加しWXレーダーを装備

5. C-124A / CでC-124型の最終形態( C-124A  51-5173~51-5187 及びC-124C型51-5188~51-5213 52-983~52-1089 53-001~53-052 )
フルスパンフラップは一部のみとなり、エルロン部分のフェアリング無し

以上が、各機製造時点での基本形態とされ、製造時に改修形態が追加されていきます。
なお、C-124A型等の運用中、未改修の旧型機に対しても、個別にレトロフィット作業が行われ、特にノーズレドームのWXレーダー装備等は、早い時点(63年以前)で殆どの機体に装着されました。
主翼端のヒーターポットがない機体及びフルスパンタイプのフラップは、1970年ごろまで確認できたため、リタイアまで改修されなかった機体もあったようです。C型エンジンへの改修は、前述の通りです。

 
❖ ダグラス C-124A 49-234 {1965年立川基地}

C-124A 最初の生産ロッド機で、C-124A初号機49-232は1951.年5月エマー L/Dでクラッシュ、2号機59-233及びこの3号機は、ノーズレドーム装備の改修はされましたがC-124A型として1967年1月MASDCへ移管されました。なお、撮影は1965年4月で、次の写真②も同一機の横位置で、撮影は65年1月で、C-124A型としてリタイアが予定されていたせいか所属等の記入は無く、ノーマークです。

 
❖ ダグラスC-124A 49-234 {1965年立川基地}

初期の生産機(49-232~49-244 までの13機)の特徴は胴体アッパーデッキの窓が10個あることで、これ以降の機体はC型を含め、上部窓は8個となり、前方から6番目の窓は、中型の非常用脱出扉を兼ねた構造となりました。なお、エンジンを変えたC型への改修は私が立川でC-124を撮り始めた当時、ヒーターポッドが無い製造時C-124Aだったことは分りますが、区別ができませんでした。 今回改めて、このオリジナルC-124A機と比較しても、非常にわかり難く、C-124AのR4360-20WAエンジンには無かったが、C型のエンジンR4360-63Aで追加されたTurbo Superchrgerのためにエンジン排気システムが変更されていることから、エンジンカウルフラップ約3時の位置に、主翼上面に向けてエンジン排気管が突出している部分が見えますが、相違点であるとは確認できませんでした。

 
❖ ダグラスC-124C 53-044 {1965年立川基地}

1974年9月までGeorgia ANG 165TAGで使用された米空軍MACで最後まで残った2機のC-124( 52-1066. 53-0044)です。 その後N3153Fと登録されましたが、飛行はせず、ラスベガス近郊で飛行機レストランとして20年以上展示(2000年頃まで)されていた機体です。

 
❖ ダグラスC-124C 52-1000 {1965年 横田基地}

この機体は、長期間MarylandのAberdeenの郊外に保管されていた機体でしたが、1982年CAのTravis空軍基地のJimmy Doolittle Air & Space Museumで展示することになり、当初陸送を計画したものの不可能とわかり、Georgia ANG等からの多数のボランテアにより飛行可能なまでに復元、AberdeenからDobbins AFB, Norton AFB、Golden Gate Bridgeを経て1984年6月10日Travisへ到着したことで、C-124型の最終フライトとして、ネットのビデオ等でも見ることができ、良く知られた機体です。なお、その後1986年になり、52-0994機がN86599として、1972年からDetroit Institute of Aeronouticsにあった機体があり、WashingtonのMcChord AFBで展示されることになり、メリーランド州からワシントン州まで飛行しています。その時のC-130、C-141、C-124のフォーメーションフライトの記録が残っており、写真を見ることができます。

 
❖  ダグラスC-124A 49-0258   {1965年頃 立川基地}

立川を離陸するC-124A型です。C型改造機には、エンジンにTorbosuperchrgerが追加されたことで、エンジン排気システムの変更が考えられますが、この写真で見えるエンジンナセルから突き出た排気管部では、C型との違いは分りません。ハワイのヒッカム1502ATW所属で、この後、テキサスのAFRES (916TCG)所属、 1969年にSACのOffutt ABで訓練用機となり、その後Dover AFB(Air Mobility Command Museum )で展示されており、現在では唯一のC-124A型展示機です。

 
❖ ダグラスC-124C 51-134 {1966年立川基地}

立川基地砂川側からの着陸で、No1エンジンを停止フェザリング状態です。

 
❖ ダグラスC-124C 50-1256 {1965年 立川基地}

立川に着陸する旧C-124A型機で、機首のWXレーダーは装備されていますが、ウングチップヒーターは無く、後部胴体水平尾翼下に見える黒い三角状のものが、本来装備されたヒーターの排気部に相当するものです。また、着陸時では、元々のフルスパンフラップであり、エルロン部も下がっているのが分ります。

 
❖ ダグラスC-124C 51-7282 {1966年横田基地}

C-124C 最終形態機で、ウィングチップヒーターポッドが装備されたことで、後部胴体のヒーターは無くなり、その付近にエアインテークが追加されました。また、着陸時のフラップ使用は一部分のみで、エルロン部にあったフラップ用ヒンジフェアリングも無くなりました。

 
❖ ダグラスC-124C 51-0120{1965年 横田基地}

1965年横田基地三軍記念日での展示機です。胴体下部、主翼直後に見えるドアは、前方の大型のクラムシェルドア以外に、この部分がリフトになり貨物を収納することができます。また、この部分は飛行中にもオープンすることが可能で、荷物の投下及び人員のジャンプ降下にも使用できるとされています。

 
❖ ダグラスC-124C 51-148 {1967年横田基地}

横田基地に駐機する旧C-124A型機で、当時の大型機等に見られた天測用の窓で、バブルウィンドがコックピット上部、一部の機体に装備されていました。

 

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