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現在、国営ひたち海浜公園として親しまれている米軍水戸対地射爆撃場跡地ですが、1973年3月 基地が日本へ全面返還される以前、何度か横田基地からのF-105、F-4C等見る機会がありましたので、当時の写真を紹介しておきます。 最初に、水戸射爆場のことを知ったのは1963年ごろで、東京の大学生時代、帰省のため常盤線を利用していましたが、その際、何度か勝田駅付近の車窓からB-57が低空をヒラリ、ヒラリと飛行しているのが見えました。 その後、1965年頃の帰省の途中、勝田駅から海方面海浜鉄道に乗り換え終点の阿字ヶ浦駅に行ってみました。 駅の観光地案内を見て駅の下方、阿字ヶ浦海水浴場の先へ歩いて行ったところ、きれいな砂浜に陸側から海中にかけ、巻いた鉄条網があり行けないことが分りました。 陸側に柵に沿って歩き少し高くなったところに「立ち入り禁止」の看板があり、そこで初めてここが米軍射爆場の基地であることが分りました。 当時は、射爆場の位置を含め、どう使われているのか等、全く情報の手段がなく、その後も何度か帰省の途中で寄りましたが、飛行機を全く見ることができなかったことが度々有りました。 学生時代を含め、休日を利用した帰省では米軍も休日であり、初めて米軍機F-105の射爆の様子が見られたのは、米軍が休日でない日本の祭日だったことが、後に分りました。 また、射爆場では米軍機が3~4機編隊で来て上空をパス、その後ブレーク、各機3~4回の射撃、爆弾投下等のパターンを繰り返し20~30分後に基地へ戻っていくもので、常に上空に飛行機が見えているわけでなく、来るか来ないか分らない飛行機を待っている間は、単に静かでのんびりした田舎の丘陵地であって、撮影目的等では行き難く、外れの日もあることを十分に実感しました。 その後も、米軍の休日の日に行ってしまったことがあり、その際、以前は阿字ヶ浦駅方面からの道路が基地の柵部分で扉があり通れなかった道路が、扉が開かれ基地の中央部を通りぬけて反対側の部落へ通り抜けできるようになっていました。 道路に沿って基地中央部の目標地点近くまで行くことができ、すぐ近くで、投下された模擬爆弾や20mm機関砲の薬莢等まで見ることができたのが思い出です。 写真で紹介できるのは、1965年ごろ、横田からのF-105D/Fの機関砲射撃、ロケット弾射撃、低空からの模擬爆弾投下等です。 また、この当時、一度だけですが、厚木基地へ配備されていた海兵隊(DR)のF-8Eクルセーダーが来て、機関砲射撃、ロケット弾射撃も見ることができました。 最後に行ったのは1968年頃で、横田からの迷彩塗装のF-4Cでしたが、何れも当時のカメラでは、長焦点の良いレンズが無く、写真よりも記録として見ていただければと思います。 また、写真だけでなく、当時でビデオ等の音声記録も残っていれば、F-105の20mmバルカン機関砲の牛の唸るような発射音、また、その後のF-4C時代の胴体下に吊るしたバルカン砲ポッド発射音との違い、また、F-8Eの20mm機関砲4門の発射音との違い等、今でも耳に残っていますが記録がないのが残念です。 最初に、横田基地での各機、装備等の分かる機体も少し紹介します。
横田に射爆場から戻ってきたF-4C(GG)で、胴体下面中央に20mmバルカン砲ポッド、主翼パイロン内側左方にロケット弾ポット、右側に模擬爆弾投下用ポットが標準的に装備されていました。
当時厚木基地に駐在していた、海兵隊部隊VMFA(AW)-312 (DRレター)で、この時期だけですが、主翼パイロンにロケット弾ポットが装備されていました。
水戸射爆場中央部目標付近で、F-105Fが爆弾の投下目標通過直後の様子で、機体左方見えるタワーは、目標監視及び基地のコントロール施設です。
F-105D 上空からのロケット弾発射直後の様子です。
F-4C 中央部先にある射撃用的(5個)でのパスです。
最後に1965年、水戸射爆場で一度だけ見ることができたF-8E クルセーダーによる対地射撃及びロケット弾訓練です。当時厚木の海兵隊部隊は、アラート任務が主でしたが、1965年 F-8E部隊もベトナム派遣を控えていたことで、一時的に主翼にパイロンを追加、ロケット弾ポット等も装備していました。 水戸射爆場の使用は通常行なっていないこともあり、写真は、訓練終了後の帰投前に編隊を組み直し、射撃場上空をパスしたときのものです。横田の空軍機ではあり得ませんでした。